打楽器を演奏する人の分類のひとつに「ドラマー」がある。
一旦、厳密な定義は置いておくとして、ここでは私が目指す「ドラマー」の理想像をつらつらと書く。
演奏家がするべき練習は、大きくふたつに分けられるだろう。ひとつは「基礎練習」。もうひとつは「曲の練習」である。
さて、私は、ドラマーは「基礎練習」を重視するべきだと考える。
もちろん、曲の練習も重要であるが、ドラマーはそれよりも基礎を固めるべきだろう。
私は、バンド内におけるドラマーの立ち位置は「基準」だと考える。
つまり、基準のドラマーがぶれてしまうと、バンドが崩壊してしまうのである。
その基準を作り上げるための練習とはなにか。そう、他でもない「基礎練習」である。
ここで、ひとつ明記しておきたいのが「ドラマーは基礎練習を重視するべきだが、曲の練習をしなくてもよいという訳ではない」ということである。
もちろん、曲の練習をすることは大切であり、これを蔑ろにすると、そもそも曲が表現できない。
しかし、その表現をするために、必要なのが「基礎練習」なのである。
ときに「ドラマーは、上手くにつれて音数が増えていくが、最終的に必要最低限の音数しか鳴らさなくなる傾向がある」というように言われる。
さて、音数の多さと、そのドラマーの上手さには、ほとんど相関関係はない。
表現に音数が必要なこともあるし、表現に音数が不要なこともある。
具体的には、迫力を出すために音数が必要なときもある。逆に、迫力をなくすために音数を減らす必要があるときもある。
では、ドラマーに必要なものはなにか。
とにかく「引き出し」である。
要望に応えられるように「引き出し」を多く用意するべきではないか。
その引き出しを得るために、基礎練習が重要だと考える。
ただし、文字通りの基礎練習──ルーディメンツ──だけで引き出しが得られる訳ではない。
様々な楽曲を"カバー"するわけではなく、"コピー"することで、その「引き出し」が増やせるのではないか。
私は、これも含めて「基礎練習」だと考えている。